早池峰神楽との出会い
1981年11月、秩父の荒川のほとりにある白鳥天神さまで、宝登山-ほどさん-系の岩田神楽を撮影しているとき、民俗芸能の研究グループに出合いました。この出合いが、その後20年近く、早池峰山伏神楽を追い続ける発端となったのです。

翌年1982年1月3日、岩手県大迫町岳で初めて見た、早池峰山伏神楽岳流の舞は、私の神楽に対するイメージを一瞬のうちにひっくり返すほどの衝撃的なものでした。

耳を聾する太鼓の音、テンポの早い複雑なリズムをとぎれることなく奏でる笛、舞台の舞をけしかけるような手びら鉦、四坪ほどの舞台で数人が両手に刀を持って、荒れ狂う巨大な燈蛾のように激しく動きまわる舞、百獣の王、獅子をかたどったといわれる真っ黒な権現は歯打ち(歯をかみ合わせて音を出す)で観客を威嚇するのですが、笛の音にあわせて歩く姿は何とも言いようがないほどなまめかしいのです。

私は、金縛りにあったように、舞台から目をそらすことができませんでした。

私が岳神楽-だけかぐら-を撮りはじめて数年後、その頃から、東京から神楽を見に来る団体が多くなり、個人で宿をとることができなくなってしまいました。岳の若手が台頭し活躍し始めた時でしたから、彼らの成長の記録の撮影なども計画していたのですが、宿のことがあって諦めざるを得ませんでした。このことは、今でも残念で心残りです。

そこで私は、充実した舞い手がそろって油ののっていた石鳩岡神楽-いしはとおかかぐら-にレンズを向けることにしました。

まだ在職中で、休暇をとって東京から撮影に訪れる私にとってありがたかったことは、石鳩岡神楽は、9月初旬の秋祭りの時期には、3日連続で、年によっては4日間、引き続いて近郷の祭典に招かれて神楽を舞い続けるので、その間、撮り続けられたことです。

しかも、それがみな神社での舞でしたから、9月は本当に楽しい月でした。公会堂や芸能大会でのステージの舞は、神社に奉納される舞と違って、神と神楽人-かぐらびと-の心の交流が希薄になってしまうように感じるのです。

早池峰山伏神楽は、山伏たちが権現をかついで里人の中に入り、神楽を舞いながら修験道を広めていったのですから、私の取材も人々が日常の生活の中でどのように神を迎え、どう交流していたのか、そして里人たちが信仰としてだけでなく、一面では娯楽として求めていた芸能の美しさを捉えようと試みていました。

私の山伏神楽の取材の旅は40回を越え、使ったフィルムも1000本近くなりました。石鳩岡神楽の人たちも、その後出会った鴨沢神楽の人たちも、いつも私を仲間のように迎えてくれました。

86年9月に、石鳩岡神楽の師匠、一ノ倉保さんに神楽の予定を問い合わせた時のこと、9日に東和町小通部落の稲荷神社が決まった、という返事でした。

石鳩岡神楽は、1983年に一ヵ月間の欧州公演によって脚光を浴びていましたから、小通でも、石鳩岡神楽に依頼するようになったのです。

稲荷神社の神楽殿は、茅葺き屋根の小さな建物でした。民家の茅葺きもすっかり消えてしまったこの地方に、山里の自然に溶け込んで建つ古い神楽殿は、大切に保存されていました。カラーを中心に撮影しましたが、はしゃぎ過ぎたせいか、ありきたりの深みのない失敗作になってしまいました。3本のモノクロフィルムの中の1枚だけ残りました。

雪の日の幻想
86年の暮れ、一ノ倉師匠から、正月2日に「幕引かず」の神楽があるという連絡を受けました。幕引かず とは、夜通し神楽を舞うということです。

元日の朝、上野から東北新幹線に乗りました。土沢に一泊し、翌日、石鳩岡神楽の車に同乗して北上市口内の農家に向かいました。

昼過ぎから始まった神楽が終わったのは、午前1時過ぎでした。

神楽の途中から降り始めていた雪は、深夜、山の間を通り抜ける車のライトをよぎって降りそそぎ、先刻まで農家の十畳間で繰り広げられた、道成寺(鐘巻き)や機織の舞の中に秘められた、女の悲しい性や怨念と重なり合って、幻のように見えてくるのでした。雪は、宿に着くまで絶え間なく降り続いていました。


門打ちのご馳走
1989年3月7日は、旧暦の2月1日で鴨沢神楽の門打ちの日でした。

朝から旧村の各戸を廻ると、最後の5〜6軒はいつも夜になってしまいます。

星の光しかない真っ暗な田んぼ道を、神楽人たちは迷わず次の家に近づいていいます。朝からのふるまい酒で酩酊しながら、川に落ちることもなくめざす家についてしまうのには驚きます。長い間都会で生活して暗闇を経験する機会のなくなった私には、いったいこの人たちは、蜜蜂のような方向感覚をもっているのかと思ってしまいます。

火防せの権現舞がすむと、どこの家でも、お酒とご馳走を並べます。

座元(神楽の代表者)の千葉 功さんは、小さい体でよく飲み、よく食べ、大声で話します。後藤昭三さんも後藤利雄さんも、みんながよく飲み、よく食べるのです。それが朝から続いているのですから、おなかのどこに入ってしまうのかと不思議な気がします。驚いて見ている私に「毎日、こだに食ってるわげでねんだ」と言って、またグイグイやっているのです。そして私は、不思議に思いながら、その逞しさ、強さにも惹かれているようなのです。

1998年2月5日、10年ぶりに石鳩岡の門打ちを取材しました。

降雪量がすっかり減って、雪は山裾に僅かにあるだけで、畑には取り残された野菜が無残な姿をさらしていました。田も畑も埋めつくし、見渡す限り白一色のあの美しい雪景色はどこにもありませんでした。

この写真集の70頁や71頁のような風景の中での神と人との出合いを求めての取材でしたが、12年前、私が撮影した柿の木は、切り倒されて祠のそばに積まれていました。

この10年間、初恋の人の面影のように、大事に思い続けてきた柿の木との悲しい再開でありました。